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ゆかりの話

670年をこえる歴史がある正定寺。向渕でお念仏の声とともに今日まで運営護持されてきました。それは数えきれない先人の営みがあったからです。営みのなかで正定寺や向渕にゆかりのあった話を紹介し、歴史とともに先人の歩みに想いを寄せたいと思います。

 

第5回 

存覚上人腰掛石 

ぞんかくしょうにんこしかけいし

存覚上人が貞和3(1347)年に向渕に来られたとき、腰を掛けられ、向渕の集落を見られたと伝わる腰掛石があります。長さ95cm、横50cm、高さ50cmの大きさです。

最初は正定寺廟所に通じる古道にありましたが、大正10(1921)年存覚上人550回忌法要記念に下方へ移されましたが、地滑りの危険があることから、昭和57(1982)年に現在の地に移転されました。

腰掛石へは、1月2日と8月7日に正定寺住職がお参りし、お勤めしますが、平素は馬場の長者の末裔である奥谷家や馬場出垣内の人たちによって、お給仕されています。

腰掛石のまわりには、椿が咲きます。東森善城前々住職の縁で奈良・白毫寺の五色椿が植えられています。

2017年より、3月の春の法要、存覚上人開基会の法要に先立ち、腰掛石にて勤行することにしました。向渕の先人が代々伝えてきた腰掛石を通して、上人の徳風を仰ぐと共に、お導きいただいたお念仏のみ教えに生き、伝える想いを新たにいたします。

2017.3.5

第4回  

向渕すずらん

向渕はスズランの里です。スズランはクサスギカズラ科の多年草で、本州以北の高原地帯などに自生しています。

 

1929(昭和4)年5月19日に向渕でスズラン群落密集地が発見され、自生スズランの南限地であることがわかりました。学術的にも大変貴重であることから、1930(昭和5)年11月19日に天然記念物に指定されました。

それまで、向渕集落の田畑のあぜなどでも咲く、馴染みの深い花でしたが、天然記念物に指定されたことから、向渕の象徴となりました。

向渕スズラン群落は地道な保存活動によって守られてきました。指定地域に柵を設けたり、下草を刈ったり、スズランの種子を増殖したり、周りの山を整備するなど、地元の​すずらん保存対策委員会や向渕のすずらん山を守る会などの保存活動が行われています。さらには、旧室生村の村花、市町村合併後の宇陀市の花にも制定されています。

正定寺の境内では、約3000株のスズランが自生しています。もともとは数株でしたが、保存活動を行う中で、東森文昭前住職が、スズランの株分けなど増殖をはかり、地元では「スズランの咲く寺」と知られるようになりました。

2016(平成28)年5月には、「すずらんTERAカフェ」を開催。境内を公開し、スズランを間近に見て、くつろいでいただくことができました。

スズランは5月中旬から下旬に咲きます。向渕スズラン群落とともに正定寺にもお越しください。また本堂の天井絵にもスズランを描いています。

2017.2.18

第3回 

向渕小学校

1874(明治7)年6月10日、正定寺境内に小学校「雙渕舎」が開設さました。後の向渕小学校で、校舎が建設されるまでの3ヶ月間、設置されていました。

この向渕小学校は、1975(昭和50)年に創立100周年を迎えた室生村立大野小学校『百年史』に詳しく記されています。

 

『百年史』は卒業年の写真を中心に編集されており、若かりし頃の写真が掲載されています。向渕の多くの人がこの小学校で学び、そして多くの人によって学校運営がなされていたことが偲ばれます。

 

1965(昭和40)年3月24日、大野小学校との合併により向渕小学校の廃校式を迎えます。式典を終わった夜、村の人が集まり、酒宴となり、最後は涙声で「校歌」や「ほたるのひかり」を歌う様子を伝えています。

「子供は大勢の中で立派に育つのだ」当時の村長が挨拶で語り、みな頭のなかではわかっていても、廃校の淋しさは耐えがたいものだと述懐されています。

 

向渕小学校が合併した大野小学校は室生西小学校となり、2016(平成28)年4月からはさらに統合で室生小学校になりました。旧室生村で小学校が一つとなりました。過疎の現実は、寂しい限りです。お寺が地域の歴史や文化を残し、伝える役割を担っていきたいと思います。

2017.2.5

第2回

大鏧(だいきん)と富良野 NEW

正定寺では毎日の朝と夕に勤行(おつとめ)を行っていますが、特に欠かせないのが大鏧(だいきん)です。本堂でのお勤めの最初や最後などに鳴らす大きな鐘で、鳴らない日はありません。

 

この大鏧の上部に「石狩国空知郡富良野 勝山定吉 明治35年6月18日」の刻字があり、勝山定吉さんより寄贈いただいたものです。富良野と言えば北海道の有名な観光地ですが、深い関わりがあります。

勝山定吉さんは、野田家(現当主 野田隆志氏)から北海道に行かれ、ご子孫も富良野駅前で「勝山商店」を営んでおられます。

 

定吉さんは、1881年(明治14年)生まれで、1948年(昭和23年)に往生されています。富良野町功労者で富良野町議会議員、勝山商店初代店主をされていました。

 

野田家の三男として生まれ1901年萩原銀行に入行するも、志をいだき北海道へ。1906年(明治39年)造材業勝山勘右衛門の帳場として精勤し、長女と結婚し養嗣子に。1912年(明治45年)には米穀雑貨を扱う勝山商店を開業。小売業に専念するかたわら、町会議員や富良野商工会議所会頭に就任されるなど、富良野の発展に多大の貢献をされました。

 

ご子孫の定和さんに伺うと、定吉さんは銀行でいざこざがあり、北海道へ逃げ、そのおり父に多大の迷惑をかけたと述懐されていたそうです。

刻字の「明治35年6月18日はまだ北海道に来ておらず、おそらく故郷を離れた日ではないか」とのことでした。深い人生模様です。

また勝山家は代々真宗大谷派(東本願寺)のご門徒で、富良野のお寺の護持に努められるとともに、京都から東本願寺のご法主が来られたおりは、寄宿用建物を進んで建てられたという逸話も。お念仏を大切に生活をされていたこともうかがい知ることができました。

 

定吉氏の父への懺悔の念、さらには故郷向渕や正定寺、お念仏に込められた想い。時を越え、場所を越え、遠く北海道の地から願いが、大鏧に寄せられていたことを知らされます。

勝山商店は、JR富良野駅前。(富良野市日の出町5-26. TEL 0167-22-2278) 地元の名産品などを販売されています。

​2017.1.4

富良野

第1回

存覚上人と馬場の長者

南北朝時代の貞和3(1347)年の冬、存覚上人が58歳の時、向渕に立ち寄られたことをもって開基としています。その時の詳しい様子は、京都・常楽台寂恵師が記した『常楽台主存覚上人伝鑑古録』(江戸時代)に伺うことができます。要約した内容は次の通りです。

 

貞和3年冬、存覚上人が伊賀(三重県)から京都への帰り道、向渕を通った時、庵に老尼があり、念仏を称えていました。存覚上人は念仏の声が聞こえるので、その庵に立ち寄ると、老尼はその神々しいお姿に驚きました。この方はただ者ではないと、庵を飛び出て、村の長である「馬場の長者」に報告します。

馬場の長者は、すぐさま存覚上人と面会しました。話を聞くとやはりただ者ではない高貴な僧侶。馬場の長者は願い出ました。

「ここは辺鄙(ぴ)な土地で、いまだ仏法を深く聴聞しておりません。上人が通られたのは、まさに渡りに船であり、暗夜の灯火。どうかこの地で教化してください。」と申しました。存覚上人も願いを聞き入れ、向渕で越年されることになったのです。


迎えた正月、「馬場の長者」は存覚上人に鏡餅を献上しました。その習慣が今も馬場の長者の末裔・奥谷家に伝わっています。そして坊舎が建立され、正定寺と名付けられました。

さらに、応安3(1370)年、存覚上人が81歳の時、「阿弥陀様の御絵像」と「法然聖人・親鸞聖人の連座の御影」(現存)を正定寺に交付され、村人は一同喜び、仏法を相続し、いまにいたっています。

常楽台は、存覚上人の住まわれた京都のお寺で、正定寺を代々お取次いただきました。

 

2017.1.3

存覚上人
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