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ゆかりの話

670年をこえる歴史がある正定寺。向渕でお念仏の声とともに今日まで運営護持されてきました。それは数えきれない先人の営みがあったからです。営みのなかで正定寺や向渕にゆかりのあった話を紹介し、歴史とともに先人の歩みに想いを寄せたいと思います。

 

第1回から第5回はこちら

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第8回  

『二尊堂』 NEW

二尊堂は、本堂の西に位置する建物で、正定寺を開かれた存覚上人より、応安3(1370)年に下付された「法然・親鸞両聖人真影像」を「二尊」の由来とします。

 

伝統行事である正月3ヶ日の御開帳をはじめ、各地よりの参拝時に法宝物を出陳するなど、正定寺を象徴するお堂です。

建立の年月は不詳ですが、本堂はじめ諸堂が灰燼に帰した慶長元(1600)年の火災からも免れたと伝えられ、幾度の修復を重ね現在に至っております。しかしながら、経年劣化が顕著となり、平成29年8月より12月にかけて修復工事を行います。

​2017.8.1

第7回  

『ふる里』

昭和31(1956)年3月に編集され、大和民報社より刊行された『ふる里』。向渕出身の社主飯降政人氏が当時の様子や歴史を綴っています。当時の「村の人達はどんなくらし方をしているか」。60年以上前の話で、いまとは生活も環境も大きく変わりました。向渕の昔を伝えるよすがとするため、一部を要約して紹介します。

 

向渕の人たちは、主として米、麦を作っている農家です。そのほかには用材を切り出して運んだり、夏の末から炭焼きが始まります。枯れ葉が落ちる頃は炭焼きも盛んで、煙が谷間の奥から立ち上ります。

 

炭の原料には、ナラ、クヌギが尊ばれ、切り出した木は釜に詰め、いわゆる蒸し焼きにされた木は炭化して木炭になります。俵詰めにした木炭は、トラックに積んで町へと運び出されます。木と山村の生活は不離なものです。用材の乏しい向渕にとっては決して充分でありません。多くは、やはり田畑の耕作にいそしんでいます。

 

その他、シイタケの栽培も行われており、菌を植え付けて養殖します。また果樹栽培も大切な仕事ですが、古くからの柿ばかりで、新品種の栽培は余りに進んでいません。最近は花にも精進し、冬季でも温床を利用して早期出荷に励んでいます。

 

平地の少ない向渕では農地も狭く、いわゆる集約農業で狭い耕地からできるだけ多くの収穫をあげる努力が続けられています。4月上旬に苗代作り、5月下旬から6月にかけて田植えが続けられ、猫の手も借りたいほどの忙しさです。朝の明けきらぬ中から仕事が始められ、夕の星を仰ぐまで続けられます。

 

夏の草取りや除草剤まき、さらに9月の台風期を迎えては、天候が心配です。秋もふけゆくにつれて稲の黄色に実り、穂がたれた10月の中頃が収穫です。刈り取られた稲は干され、脱穀、糠摺り、俵に詰めて積み出され、農業組合に集められトラックに積まれて都会へと運ばれます。

 

農家は副業をもっています。脱穀した残りの藁は縄や色々な藁細工に使用し、多くは牛の飼料に交ぜたり、牛小屋の敷草にふませて肥料をつくります。家畜を飼い、乳をしぼったり、卵を生ませることも大切な仕事としています。

 

2017.4.14

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